ただの日記になってしまいました。

こんにちは。ゆいです。

一週間に一度はブログ投稿をしようと思っているのですが、気づいたら一週間たっていました。殴り書いています。

 

最近は実家に帰省しています。

帰省中の目標は、

1、本をたくさん読む

2、ピアノを弾く

3、文字をきれいに書く練習をする

の三つです。

 

本は、まだ二冊しか読めていないのですが、

伊坂幸太郎さんの「逆ソクラテス

町田そのこさんの「52ヘルツのクジラたち」

を読了しました。

どちらもずっと前から読んでみたかった本だったので、読むことができてとてもうれしいです。軽く感想でも書いておきます。

 

「逆ソクラテス」は、子どもが主人公の短編集で、“自分がどう思うのか、それでいいのか”ということを追求する子どもたちが描かれていたように感じた。

周りの大人や、社会に充満する当たり前をそのまま受け入れるのではなく、自分がそうじゃないと思うことをやめてはいけない。言葉でいうのはとても簡単だが、実際に行動することは、大きな勇気と覚悟を必要とすることである。これは、私自身が、大学という組織で学ぶなかで日々考えている点であったため、響くものがあった。

私自身、特に考えさせられたのは、いじめられっ子が違う土地で学校生活をやり直すことは応援できるが、いじめっ子が違う土地でやり直すことは、応援できるのか、ということである。やり直したい、という意思を応援してあげたいと、この本の登場人物には思えた。しかし、実際その選択ができるのだろうか。

こうして考えていると、いじめっ子という肩書はどこまで影響を与えるものなのだろうかと考えてしまう。作中にも出てきたが、その学校のそのクラスでは確実にその肩書は存在するだろう。しかし、違う土地に行ったり、進学したり、社会に出る中で、その肩書を知っている人間はいなくなっていく。それはよいことなのだろうか。それはやり直しを意味するのではないか。いじめられっ子には、やり直すことが許されるのか。

しかしそう考えると、すべての人間は、多くのやり直しの機会が与えられていることになる。そうなれば、いじめっ子にもやり直しの機会があることは許されることであると思う。しかし、いじめた過去をなくすようなやり直しではいけないのではないか。またわからなくなってきてしまった、、。

そして、「将来いじめていた相手とどんな関係で再開するかわからない、取引先の相手かもしれないし、客人かもしれないと言っていじめはよくない」と説くシーンが何回か出てきたが、その説明でいじめをやめさせるのは少し浅はかなのではないかと思った。いじめを受けた側の心労への責任はだれがとるのだろうか。子ども間での説明であればまだ理解できる気もするが、大人からそのセリフが出たのには少し違和感を覚えた。

しかし、いままで、こうして感想を文字に起こしたことも違和感に気付いたこともなかったので、書きながらとても驚いている。もう一度読んでみるとまた考えが変わるかもしれない。自分の考えが深まるチャンスのような気がしている。

 

「52ヘルツのクジラたち」は、52ヘルツというほかのクジラたちに聞こえない声で鳴くクジラのように、だれにも聞こえない心の声を抱えて生きている人間たちの物語であった。私は、恵まれた環境で、いい人たちに囲まれて生きていると自分でも思うが、それでも、だれにも聞こえないように隠している自分の声はある。私も魂の番に出会えたらいいなあ、と思いながら読んでいた。実際、本の中では、魂の番に会った人はいないのではないかと感じるが、村中はキナコにとってそんな存在になれるのではないかと、カプ廚の私は勝手に思った。

恵まれた環境にいる自分だからなのだろうか、一番感情移入できたのは、美晴であった。彼女にもきっと52ヘルツの叫びはあるのだろう、と思いながら読んでいた。しかし、彼女は、その叫びを声に出すことができる人間なのではないかとも思った。そして、そんな彼女だからこそ、キナコのことも52のことも現実を見ながら、できるだけ助けようとしてくれたのではないだろうか。私は彼女みたいな人間になりたいと思った。

トランスジェンダーの話も出てきたが、このことについては、いつか私のもやもやをブログに書き綴りたいと思う。

 

語調が変わってしまっていることに書きながら気付きました、、。

考え始めるとぐるぐるしてしまうのが自分のいいところでもあり少し生きづらいところでもありますが、こうやって考えを文字に起こすことで、残すことで、自分に絶対にいい影響があると思うので、残します。

こんな不格好なブログですみません。